つぎのはるがくるのがこわい
春。雷門中学校の校門から中庭に至るまで、綺麗に並んで植えられた木という木すべてが桜色に染まった三月の半ば、三年生にとっては中学生活最後の行事となる卒業式が始まろうとしていた。
普段は広く感じる体育館が、今日はどこからか運び込まれた大量のパイプ椅子のせいで狭く感じる。三月に入って二月の厳しい寒さより幾分か気温が上がったとはいえ、暖房がついていない体育館の中は室内といえども、まだ少し肌寒い。その寒さに寒い場所が苦手な狩屋は身震いしつつ、必死に耐えようとしていた。
(寒いし退屈だし、早く帰りてえ……)
一在校生の模範と言わんばかりの澄ました顔でパイプ椅子に腰かけて座ってはいるが、内心はまったく卒業式なんぞに興味があるわけもなく、堅苦しいこの雰囲気が、始まってもいないこの式が早く終わることばかり考えていた。
しゃかしゃかと音が鳴ってうるさいからと式への持ち込みを禁止されてしまったカイロの温もりを思い出すと、思わず小さなため息がこぼれてしまう。
「……ふう」
「あれ、狩屋くんも緊張してるんですか?」
「えっ」
小声で話しかけてきたのは隣でそわそわしていた影山だった。影山は時計を見たり、壇上を見たり天井を見上げたりと落ち着かないようすだ。
「卒業式ってなんだか緊張しますね」
「……まあね」
バーカ、緊張なんてするわけないだろ。
いつものように毒を吐きたくもなったが、今は部活中ではなく、クラスメイトもいる。未だにクラスメイトたちの前で猫を被っている狩屋は、当たり障りのない適当な返事をした。
刹那。後ろからキャーと女子生徒の黄色い声援がいくつか飛び交った。声援の先は見なくとも分かる。贈る言葉をスピーチする在校生代表、贈る歌、校歌の伴奏に選ばれた二年生の神童拓人。壇上に上がって先生たちと本日の式の最終確認を行っているようだ。ウエーブのかかったミルクティーブラウンの髪を揺らしながら、時折手元のメモを見つつ頷いている。神童はそのルックスもさることながら、サッカー部の元キャプテンというだけにとどまらず、学力とピアノの才能にも恵まれており狩屋たち一年生の憧れの先輩として、知名度が非常に高い。
億劫に感じる式の歌の練習中、女子生徒の士気が異常に高かったのも彼のおかげであることに間違いない。後ろからひそひそと聞こえる彼を称賛するクラスメイトたちの声に耳を傾けつつ、狩屋は本日の司会進行に選ばれた男子生徒に目を向けた。二年生で神童の幼なじみ、霧野蘭丸。校内に咲き乱れている桜の色よりも主張しているピンクの髪の毛を何度も揺らしながら先生と話し合っている。舞台の幕側で端の方にいるから目立たないのか、それとも壇上の神童に釘付けなのか、女子生徒は霧野の存在に気がついていないようだ。
何も知らない者が霧野を見たら「なぜあの生徒は学ラン服を着ているのか」と首をかしげてしまうだろう。二つに結われたピンクの髪、猫のように丸くて少しつりあがった深い緑と青が混ざったような瞳。顔だけを見ると霧野は女子生徒のように見えるが、彼はれっきとした男子生徒だ。
しかし、その綺麗なルックスに見惚れた彼のファンは男女問わず少なくはない。
(黙ってたら本当に綺麗なんだけどな……)
狩屋も例に漏れず、霧野のルックスに心を射抜かれたファンの一人だ。しかし、狩屋はそのルックスだけでなく、性格的な面も含めて密かに想いを寄せていた。
同じサッカー部の、しかも同じディフェンスというポジション柄、霧野とは関わることが多かった。女性的な見た目とは裏腹に意外と行動的で短気で口うるさい。皆まで言うと彼の悪口のようにも聞こえるかもしれないが、狩屋はそんな性格すべてを含めて霧野の魅力だと思っている。ただ、天邪鬼な狩屋は、無邪気な天馬や信助のように素直にその気持ちを彼まで伝えることが出来ずにいる。尤も、今のところその気持ちを伝える気はさらさらないのだが。
「俺、神童に誘われて卒業式の司会進行をすることになったんだ」
ひと月ほど前。ユニフォームに着替えている狩屋の元にやってきた霧野はそう告げると、「だから、これから練習を休むことがあるかもしれないが俺のいない間もちゃんと練習しててくれよ」と続けた。「へえ、そうなんですか。俺は先輩がいなくてもちゃんとやるから心配なんていりませんよ」といつもの調子で適当なふりをして答えてみたものの、やはり霧野がいない日は今ひとつ練習に身が入らなかった。幸いにも猫を被ることが上手い狩屋は、周りに分からないようにいつも通りすました顔で練習をしていたため、練習に集中できていないことは周りには気づかれずに済んだ。
霧野が司会進行に選ばれなければ、面白くもない式の練習なんぞ、くそくらえ。腹痛を訴え、保健室の簡素なベッドに寝転がってずる休みしていたに違いない。
舞台の端で教師とやり取りをしている霧野の後ろ姿を興味がなさそうな素振りをしつつも追いながら、この頃の日々を思い返す。
「それでは、卒業生が入場します。一同起立。後ろの扉から入場する卒業生を、大きな拍手で出迎えましょう」
マイクを通して体育館の中に響くアルトボイスは、いつにも増して凛とした声だった。
式は順調に進んでいった。長ったらしい校長や外部講師の祝いの言葉も終われば、残るものは卒業証書授与、別れの言葉、贈る言葉くらいだ。
式典の間に淡々とした口調で式を進めていく霧野の声が響く。いつも聞いているような抑揚のある口調ではない。キャプテンとしての経験があった神童はともかくとして、全校生徒、保護者の前でそつなく司会をこなす霧野は流石だと思った。緊張を微塵も感じさせない仕草や、マイクを手にする横顔を盗み見ながら、少しだけ彼との距離を遠くに感じた。
もしも、来年。自分があの場に立てと言われたら、霧野のように司会としての役目をこなすことはできるのだろうか。堂々とした立ち姿、綺麗に伸びた背筋。あと一年経つだけで、あんな風になれるとは到底思えない。
「三年A組、一同起立」
タイミングを綺麗にそろえて立ち上がった三年生の後ろ姿の中から、世話になった先輩たちの背中を探す。三国、天城、車田の三人は学年が二つ違うため、関わりが特別多かったわけではない。しかし、彼らは同じディフェンスというポジションや、ディフェンスのさらに後ろを守るゴールキーパーというポジションに就いていたため、他の同学年のチームメイトと比べると狩屋が関わる機会は多かったのかもしれない。彼らがフィールドから去って半年。残されたディフェンスは霧野と狩屋だけになってしまった。さりとて「来年は新しい一年が入ってくるといいな」とまだ見ぬ新入生に期待を抱く霧野に対して、面白くないと思ってしまう程には寂しさを感じているわけではなかった。しかし、フィールドに響いていた頼もしく力強い声が聞こえなくなり、わずかながら寂しく感じていたのも事実だった。
「卒業証書、第五千四百八号――」
名前を呼ばれた生徒が大きな声で返事をし、立ち上がり壇上へと上がっていく。卒業証書を受け取って振り向いた瞬間、彼らは何を考えているのだろう。桜に負けないような満開の笑顔を見せる者もいれば、目元を真っ赤に腫らしながら泣いている者もいる。あと二年もすれば、どんな顔をしたらいいのか狩屋にも分かるのだろうか。
耳をすませば、感極まって涙を流す生徒が増えたせいか鼻をすするような音がどこからともなく聞こえてきた。隣の影山も、例にもれず学生服の袖で目を擦りながら泣いているようだった。
送られる方も、送る方も。この学校や過ごした日々、ともに過ごした時間に思い入れが強いほど涙を流してしまうのかもしれない。
一年生の狩屋たちは、来年も送る側の生徒として卒業式に出席する。その時壇上に上がるのは、今は式の司会進行役を務めている霧野たちだ。
霧野は卒業証書を受け取った後、どんな顔をして階段を下りるのだろう。にこやかに微笑む姿こそ想像はつくが、涙を流す姿は想像できない。サッカー部に入部した当初、嘘をついてみたり、足を踏みつけてみたり。色々な嫌がらせをしたが、怒られはしたものの、泣かれたことはなかった。そんな霧野も涙を流すことがあるのだろうか。そんな姿を興味半分で見たいような気もするが、見てはいけないものを見てしまったと後悔しそうで見たくない気もする。
(センパイの卒業式なんて、出席したくないな)
壇上から目線をそらし、目線を落とした。あの壇上で卒業証書を受け取ってしまえば、もう校内で霧野とバッタリ出会うこともなくなってしまう。関われる機会も必然的になくなってしまうのだろう。努力次第では何とかなるのかもしれないが、霧野が卒業した後も尚自分と会ってくれるような未来はまったく見えてこない。期待なんて、しない方がいいに決まっている。ぐっと膝の上に置いていた拳を握りしめた。
「狩屋くんも、ですか?」
そっと影山の手が狩屋の握り拳に触れた。驚いて影山の顔を見ると、涙でぐしゃぐしゃになっていた。おそらく影山は狩屋も自分のように泣いていると思って声をかけたのだろうが、生憎狩屋の頭の中は来年の卒業式のことでいっぱいになっていただけだった。
「輝くん、もしかしてハンカチ忘れたの?」
影山の学生服は袖の部分だけ明らかに色が濃く、変わってしまっていた。
「これ使いなよ」
朝、使うだろうからと渡されたまま、ポケットにしまい込んでいたハンカチをそっと手渡した。
「ごめん、ありがとう」
ハンカチで目元を拭いながら、影山がお礼を言った。「うん」とだけ返事をした。
今はすぐにハンカチを差し出すことができたが、もしかすると来年は貸せないかもしれない。壇上へと上がっていくオペラピンクの後姿を思うと、今からでも不思議と謎の虚無感に近い何かがこみ上げてくるようだった。
卒業式は、何事もなく無事に終わった。
途中、卒業生を送る言葉で在校生代表の神童の涙が止まらなくなり、言葉が詰まるアクシデントはあったものの、進行が滞ることなく無事に式は終わった。
式終了後。ステージの舞台端を見ると、霧野が神童の背中を摩りながら笑っていた。「神童がんばったな」とでも声をかけているのだろうか。何か話しながら、頷きながら、ハンカチで目元を拭う神童の背中を摩り続けていた。椅子を片付けるよう指示が出されるまでの間、狩屋はそんなふたりの姿をただただじっと眺めていた。
体育館の片付けも終わり、各々のクラスで解散した後、サッカー部は全員グラウンドに集められた。ベンチの近くで和気あいあいと本日の主役だった三年生、二年生を中心に、天馬や狩屋たち一年生も加わって雑談で盛り上がっている。
「三国先輩! 先輩方がいない間に俺、すごい必殺技ができるようになったんですよ!」
「おお! そりゃあ頼もしいじゃないか! じゃあ、今日は新しい必殺技を見せてもらわないとな!」
「はい! 頑張ります!」
天馬と三国が楽しそうにこの後に行う卒業試合の話をしているところに、神童と霧野が割って入った。
「三国さん。今まで、本当にお世話に……」
「何だ、神童。今から泣いてたら、試合が始められないじゃないか」
三国に話しかけるなり、涙を流し始めた神童を三国が笑い飛ばす。急に涙を流し始めた後輩に対しても、にこやかに明るく接することができる懐の深さが彼の魅力なのだろう。くしゃりとウエーブがかかった髪を撫でながら、「もう一生会えないってわけじゃないんだから、泣くな!」「時間ができたら顔を見せにも来るからな?」と優しい言葉をかけ続けている。
「すみません、三国さん。練習試合が終わるまでは泣かないと決めていたみたいなんですけど……」
泣き止まない神童の代わりに、霧野が三国に軽く頭を下げて謝る。
「いいっていいって、気にするな。それよりも神童の贈る言葉、すごく良かったぞ。霧野も司会進行、大変だっただろ?」
「あ、ありがとうございます!」
三国からの労いの言葉に霧野がお礼を言うと、続けて神童も、鼻声になりながら「ありがとうございます」と弱弱しく続けた。
「神童……、」
霧野はずっと神童の隣で、神童の背中を抱きかかえながら心配そうに様子を見ている。式が終わった直後の光景と同じだ。きっと今、あの瞳の中に神童以外の人は映っていないだろう。映ることさえもできないだろう。
あと一年経って、卒業式が終わった後に霧野に話しかけられるだろうか。今でも伝えたいこと、話したいことはたくさんあるのに、卒業式のあととなるともっと話したいことはある筈だ。
しかし、話しかけたとしても、きっと来年も泣いているであろう神童の介抱で忙しくして、見向きもしてくれないのではないか。そんな根拠のない不安が狩屋を襲う。
少しだけ肌寒いグラウンドに風が吹いた。グラウンドを囲んでいる桜の木から、次々と花弁が剥がれ落ちてはどこか遠くへと、風に乗って去っていく。
(ねえ、センパイ。来年、センパイは俺のことを見てくれますか)
次の春が、来るのがこわい。
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2018/01/05